2009年6月19日 (金)
昭和30年代 多くの家は貧乏だった
僕は、ちょうどペリー来航から100年後の昭和28年8月28日生まれ。終戦の痛手を感じつつ、さあこれから日本再生だという芽が出てくるころだった。空襲を受けていない田舎には昔の家並みが残っていたし学校は古い木造校舎だった。先生の多くは帰還兵で授業といっても戦争体験談が多かった。元兵隊の先生はとても生徒には厳しくよくゲンコツをくらった。
多くの家は貧乏で子供は小学校から親の手伝いをしたり内職などの手間仕事をしていた。洋食はほとんど食べたことがなく都会の百貨店の大食堂でカレー・フライ・ハンバーグなどを知った。家では魚と野菜中心の食べ物でお菓子などは大人が食べるものだと思っていた。お酒の当てに親がお菓子を食べているとき、おこぼれを戴いて早く大人になりたいと思った。
小学生の頃は肉と言えば鶏肉で牛肉を食べる家などほとんどなく、誰もが家で牛肉を食べるとなるとクラス中に自慢していた。「俺ん家、今日牛肉食べるんやで」と誰かが言えば、クラス中から「うわー、すご~い」といった会話がなされていた。テレビもなくラジオを聴きながら必死になって親が働いている姿を見ながら子供は大きくなっていった。
2008年12月15日 (月)
株式会社薩摩藩の取締役 小松帯刀
株式会社薩摩藩の大社長といえば島津斉彬 彼を社長と仰ぎ多くの人材が成長を遂げた。西郷隆盛はお庭役につき、小松帯刀は奥小姓に任命されて斉彬の薫陶を受けている。斉彬死後、次の藩主久光によって27歳で家老見習いに抜擢されている。今風に解釈すれば次期社長によって平の取締役に抜擢されたようなものです。
このとき土佐藩では坂本龍馬が脱藩しています。西郷隆盛は久光の指示に背いて徳之島に流罪となっています。28歳で薩英戦争の総指揮を取り敗戦、攘夷が不可能だと知ることになります。早急に戦後処理を行い殖産興業に努めるようになります。また、兵庫で徳川将軍慶喜に召され公武合体を推進することで合意します。
29歳でイギリス商人グラバーから二隻の船を購入、禁門の変では会津とともに長州と戦っています。勝海舟が幕府軍艦奉行を罷免され路頭に迷う坂本龍馬などの海軍操練所の塾生30名ほどを引き受けます。坂本龍馬の後ろ盾となり彼の活動を援助しています。薩長連合は彼の存在なくては成立しませんでした。
32歳で大政奉還を徳川慶喜に決意させ、江戸城総攻撃を中止し無血開城に向かわせましたが病状が悪化、その後35歳で病死するまで病気養生に努めています。下級武士であった西郷隆盛が薩摩軍を指揮できたのも大久保利通が活躍できたのも小松帯刀が引きたてたからに他なりません。


